連載:仏教と葬送を考える──葬式仏教
教えに興味の無い仏教徒
これまで何度か「葬式仏教」という言葉に触れてきました。
葬式仏教とは、活動の中心が葬送となっている、現代の仏教のあり方を指す言葉であります。その中には、「あまり教えを説かずに、葬式ばかりやっている」と仏教を揶揄するニュアンスも含まれています。
ただ、葬式仏教という宗教は、ある意味、人々に求められて生まれた宗教であるという一面もあります。
むしろ日本人はこれまで、教えの仏教よりも、葬送の仏教のほうを選んできました。
「教えの仏教」という表現をしましたが、仏教というのは、もともと紀元前六世紀頃、インドで釈迦が説いた教えをもとにした宗教であります。その後、中国、朝鮮を経て日本に伝わり、平安時代の最澄・空海、鎌倉時代の法然・親鸞・道元・日蓮といった祖師方よって日本的な仏教が展開されました。
そして、その根底を貫いているのは、教えであります。釈迦が説いた教え、祖師方が説いた教えが仏教の柱であります。
ところが多くの日本人は、お寺に所属しているにもかかわらず、その教えの内容をほとんど知りません。知らないどころか興味も持っていません。そのため、自分のことを無宗教と思っている人が大多数です。平成20年の読売新聞による意識調査によると、「あなたは、何か宗教を信じていますか」という問いに「はい」と答えた人は、26.1%しかいないのです。
葬式仏教の教え
しかし教えというのは、釈迦や祖師方が、言葉で説いたものだけではありません。仏教は約2500年をかけて、その教えを広げ、深めてきました。その中には、日本の祖師方が説いた理念的な教えもあれば、名も無き僧侶らが儀礼を通して展開してきた感覚的な教えもあります。
「感覚的な教え」といういい方はわかりづらいかもしれません。
それは例えば、葬儀や法事、墓参りや仏壇へのお参りなどで表現されている教えです。あまり言語化されることはありませんが、そうした儀礼を通して表現されている教えです。
これをあえて言語化すると、その教えの中心は、〈死者を供養する〉ということであります。
この教えでは、生きている私たちが、手を合わせて供養することで、あの世で暮らしている死者が安らかになることができるとされています。同時に、あの世で暮らしている死者も、私たち生きているもの達の幸せを祈ってくれているとされています。
死者と生者は、お互いに安らかであることを祈るべきであるし、祈ることでそれが実現するということです。
この教えは、あえて説かれることはほとんどありませんが、ほとんどの日本人が無意識的に信じている信仰です。当たり前すぎて、教えとして、あるいは信仰として、認識されることすら少ないと思います。
この教えが、ここまで広がり、定着しているのは、やはり日常的に、葬儀や法事、墓参りや仏壇へのお参りがなされているからであります。
死者との交流は続く
私たちが、仏壇やお墓の前にたたずむとき、亡くなった大切な人とのつながりが再確認されます。声を出して話しをする人もいるでしょう。心の中で話しかける人もいるでしょう。目をつぶれば、笑った顔が浮かんでくることもあります。
そうした行為を通して、人は死んだら、すべてが終わってしまうわけではないということを我々は学びます。人は死んでも、生者との交流は続くのです。
私たちは、日常的な儀礼を通して、死者があの世で、安らかに暮らしているんだという実感を持つことができます。大切な人があの世で安らかであれば、私たちも幸せを感じることができるのです。
そして、いつか自分自身も死に直面する時がきます。そうした時に、安らかな気持ちでいられるかどうかは、今、私たちが、亡くなった人をどれだけ大切にできるかにかかっているのではないかと思うのです。
薄井 秀夫
薄井 秀夫(うすい ひでお)
プロフィール
昭和41年、群馬県生まれ。東北大学文学部(宗教学)卒業。
中外日報社等を経て、平成19年に株式会社寺院デザインを設立。
お寺のコンサルティング会社である寺院デザインでは、お寺の運営コンサルティング、運営相談を始め、永代供養墓の運営コンサルティング、お寺のエンディングサポート(生前契約、後見、身元引受等)、お寺のメディアのサポートなどを行っている。
葬式仏教や終活といった視点でお寺を再評価し、これからのお寺のあり方について提言していくため、現代社会と仏教に関心の高い僧侶らとともに「葬式仏教価値向上委員会」を組織して、寺院のあり方について議論を続けている。
また、お寺がおひとり様の弔いを支援する「弔い委任」を支援する日本弔い委任協会の代表も務めている。
- 更新日時:2023年02月24日|カテゴリー:ブログ