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連載:仏教と葬送を考える──僧侶は弔いに関わってはいけない時代があった

死を穢れと考えていた仏教

 仏教が葬送に関わってはいけない時代があったことをご存じでしょうか。死を穢れと考えるのは神道の考え方だとされますが、実は仏教も鎌倉時代くらいまでは、死を穢れと考えていました。
 鎌倉時代初期に活躍した鴨長明という僧侶がいます。
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という冒頭の文章が有名な『方丈記』は、古文の教科書にも出てくるので、ご記憶の方も多いと思います。その鴨長明が当時広まっていた仏教説話を集めて編纂した説話集が『発心集』です。その中に、次のような話が収録されています。

ある僧侶の話①──母を亡くした娘と出会う

 ある時、京都に住むある僧侶が、思うところがあって、坂本(今の滋賀県)にある日吉神社に百日詣をしようと決心しました。

 八十日目を過ぎて何日目かのことです。お参りから帰る途中、家の前で人目をはばかること無く泣いている娘と出会いました。

 僧侶は放っておけず、「何がそんなに悲しいのだ」と声をかけます。

 ところが娘は僧侶を見て、「見たところ、お坊さんは精進潔斎してお参りをしているようです。そのような方には、ご迷惑ですからお話しできません」と言うのです。

 僧侶は、娘の言葉から何があったのか何となく察しましたが、ほおっておけず、何度も問いただすと、ようやく娘は身の上を話し始めます。

「実は、私の母はずっと具合が悪かったのですが、今朝、看病の甲斐無くついに亡くなってしまいました。つらい別れです。受け入れなくてはならないことです。ただ、母をこれから弔わなければなりません。私は独り者なので、頼る人もありません。女ひとりではどうにもなりません。村の人は『かわいそうに』と言ってくれますが、神社に使える村ですから、死の穢れのことを考えると、頼るわけにいきません。それで、どうしたらいいか困っているのです」

 娘の話を聞いて僧侶は、「ほんとうに困っているのだな」と切なくなり、ともに涙を流します。そして「神さまも我々衆生を救うために、この穢れに満ちた世界に存在をお示しくださったのだ。私も、娘の話を聞いて、どうして放っておけようか。これまで、こんなに何とかしてあげたいという気持ちを持ったことはない。仏さま、よくご覧になってください。神さま、百日詣での途中ですが、ここで穢れに触れることをお許しください」と考えます。そして「そんなに悲しむでない。とにかく亡骸を埋葬しよう。ここに立っていると怪しまれるから、とりあえず中へ」と、亡骸が安置された家に入ろうとすると、娘は涙を流して喜びました。

 僧侶は日が暮れてから、闇夜にまぎれて亡骸を移し、懇ろに弔います。

ある僧侶の話②──神の怒りを怖れる僧侶

 その夜、僧侶は寝付くことができませんでした。そして「ああ、死の穢れに触れてしまい、八十日以上お参りした功徳を無駄にしてしまった。つくづく残念だ。でも百日詣はご利益のためだけに始めたのでは無い。この後お参りに行って、日吉の神さまが衆生を救おうとお誓いになったお気持ちに触れてこよう。穢れに触れてはいけないというのは、形式的なものであるのだから」と考え、明け方に水を浴びて潔斎し、日吉神社に向かいます。ただ道すがら、やっぱり穢れに触れたことが気になり、恐ろしさも感じ始めます。

 神社に着くと、二ノ宮のあたりに、人がたくさん集まっていました。よく見ると、巫(かんなぎ)に神さまが降りて何かを語っているところでした。僧侶は、自身が穢れに触れてしまったことを負い目に思っていたので、巫に近づかず、形ばかりのお参りをして帰ろうとしたところ、巫が遠くから「そこにいる僧よ」と声をかけてきます。僧侶はとても恐ろしくなりましたが、逃げることも出来ず、わなわな震えて巫のもとに出ると、まわりの人も怪訝な顔をして見守ります。

 巫が声をあげて「あなたのしたことははっきりと見たぞ」と語りかけると、僧侶は恐怖で身の毛がよだち、生きた心地がしませんでした。さらに「恐れることは無い。感心なことだ。私はもともと神では無く、地蔵菩薩である。衆生への哀れみから、方便で神に姿を変えて日本に現れたのだ。穢れを避けるのも、信心を深めるための方便である。ただ、このことを他人に語ってはならない。愚かな人間は、おまえが哀れみの気持ちから禁を破ったことを知らないで、簡単に戒めを破ってしまうだろう。これを先例にしてしまうと、信心を乱してしまう。物事の善悪は、人によって異なるのだ」と。

 僧侶はこれを聞いて、ありがたく、畏れ多く感じて、涙を流して社を離れていきます。その後僧侶には、何かにつけて神仏のご利益であろうことが多かったとのことです。

勇気を振り絞って死に関わる

 この話からは、鎌倉時代、死の穢れというものが如何に怖れられていたかがよくわかります。特に、国に認められた正式な僧侶、すなわち官僧は、死の穢れに触れた場合、三十日間精進潔斎をしなければならず、さらには穢れが他の人に移らないように家の中に籠もっていなければならなかったのです。
 ところが、この発心集に出てくる僧侶は、穢れを避けなければならない身であるにもかかわらず、親を亡くした娘を哀れだとおもって、その亡骸を弔います。しかも僧侶自身は、神社にお参りをする際、この行為に対する神の怒りを怖れているのです。現代人の感覚では、単純に「親切な、いい人だ」ということになるが、当時の人にとってはそう単純では無かったはずです。
 死の穢れに触れるということは、本人にとっても恐ろしいことであるし、同時に他の人に迷惑をかけかねない行為でした。そして、死に触れたこと自体が、僧侶にとって咎められるべき行為でもあったのです。
 この説話に登場する僧侶が、死に関わろうと決心するまでには、相当な勇気を振り絞ったはずです。社会的な掟と慈悲の心の間で、気持ちは揺れ動いたに違いありません。それでも僧侶は、娘の母親を弔おうと決心したのです。

葬式仏教の誕生

 これが、葬式仏教の誕生だと思います。
 おそらく、たくさんの名も無き僧侶が、この僧侶と同じような場面に出くわし、同じような決心をしたに違いないと思うのです。人を救いたいという気持ち、そして慈悲の気持ちが、こうした行為を生んだに違いないと思います。
 鎌倉時代、法然や親鸞、道元、日蓮などの祖師方が、個人を救うための教えを説きました。そしてその弟子たちが、その教えを広めようと布教活動を続けてきました。
 そしてそうした活動が、一気に広がるのが室町時代後半です。日本のお寺の約9割は、この時代に建立されています。そしてこの時代、僧侶が葬送に関わるようになったことで、仏教は庶民にまで定着したのです。
 僧侶が葬式に関わることに関して、祖師方は何も言っていません。
 しかし、祖師方が説いた教えは人を救うためのものです。その人を救いたいという思いが、年月をかけて何代も伝わり、葬式仏教を生んだのです。

薄井 秀夫

薄井 秀夫(うすい ひでお)

プロフィール
昭和41年、群馬県生まれ。東北大学文学部(宗教学)卒業。
中外日報社等を経て、平成19年に株式会社寺院デザインを設立。
お寺のコンサルティング会社である寺院デザインでは、お寺の運営コンサルティング、運営相談を始め、永代供養墓の運営コンサルティング、お寺のエンディングサポート(生前契約、後見、身元引受等)、お寺のメディアのサポートなどを行っている。
葬式仏教や終活といった視点でお寺を再評価し、これからのお寺のあり方について提言していくため、現代社会と仏教に関心の高い僧侶らとともに「葬式仏教価値向上委員会」を組織して、寺院のあり方について議論を続けている。
また、お寺がおひとり様の弔いを支援する「弔い委任」を支援する日本弔い委任協会の代表も務めている。

  • 更新日時:2023年05月30日|カテゴリー:ブログ
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