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連載:仏教と葬送を考える──現代の野辺送り

みんなで故人を墓地に送る習慣

 先日、僧侶の研修会で講師として呼ばれ、千葉の柴山町という地域に行く機会がありました。
 研修会後、参加した僧侶の方々と雑談をする中で、この地域では、現在でも野辺送りの習慣があることを知りました。
 野辺送りというのは、戦後すぐくらいまでの日本では、当たり前の習慣で、葬儀の時に、親族、地域の人、僧侶らが葬列をなして墓地まで遺体を運ぶ儀式のことを言います。
 葬列をなす親族には、それぞれ役目があり、特に位牌や飯、水桶、香炉、紙華、天蓋を持つ人が最も重要な六役と呼ばれることが多かったようです。
 葬儀の日の朝、僧侶が個人の自宅を訪れ、自宅で柩におさめられた遺体の前でお経を読みます。その後、家から出棺し、親族、僧侶らとともに葬列を組みます。
 自宅を出発した葬列は、まずはお寺に向かいます。道を進む葬列に対して、地域の方々は手を合わせ、故人を送ります。
 お寺に着くと、本堂の前に柩を安置し、そこで僧侶がお経を読みます。その後再び葬列を組み、お寺を出発し、村はずれの墓地に向かいます。
 墓地では、地域の人が既に遺体を葬る穴を掘って待っています。葬列が到着すると、柩を墓穴に降ろし、上から土をかけ、お墓に納めます。
 地方によって多少の違いはありますが、この一連の流れを野辺送りといい、この流れ全体が葬儀でした。
 日本の葬儀の基本的形態でしたが、戦後、全国に火葬場が整備され、土葬が無くなっていくと、だんだんと野辺送りの習慣が無くなっていきました。
 野辺送りは、遺体を埋葬する墓地まで歩く習慣です。墓地は、家の近くにあるというのが一般的でしたが、火葬場は、市町村に1カ所ということが多く、歩いて行ける距離であることのほうが珍しいのが現実です。
 そうすると遺体を火葬場に運ぶのは、必然的に自動車(霊柩車)となり、葬列の習慣が無くなっていったのです。

火葬にあわせた現代の野辺送り

 芝山町周辺では、未だに野辺送りが行われているということでしたが、もちろん昔のままの姿というわけではありません。
 柴山町も現在は、火葬場ができ、土葬をする人はいません。
 現在のプログラムは、次のような流れとなります。
 朝、僧侶が故人の自宅を訪れ、柩に収められた遺体の前でお経を読みます。その後、遺体を霊柩車に乗せ、火葬場に向かいます。ちなみにこの地域では、火葬は葬儀の直前に行います。火葬が終わると、葬儀会場に向かい、会場で葬儀が行われます。葬儀では、祭壇に遺骨が納められて、儀式が進行します。
 葬儀を終えると、親族を中心に葬列が組まれ、遺骨と一緒に葬儀会場を出発します。葬列をなして歩くのは、葬儀会場の近くにとめられた自動車までです。親族と遺骨はそこで車に乗って墓地に向かいます。
 墓地に駐車したら、自分の家のお墓までは再び葬列を組み、向かいます。
 お墓についたら、カロートの蓋をあけて、遺骨を納め、一連の儀式が終わります。
 現在でも行われている芝山町の野辺送りは、歩く距離としてはとても短く、せいぜい数十メートルといったところだと思います。
 しかし、家族親族で故人を送るという、野辺送りの思想は継承しており、充分に野辺送りの役割は果たしていると言えるでしょう。

故人を送るのは自分であるという当事者意識

 野辺送りというのは、単に、昔ののどかな時代の風習だという印象を持っている人が多いと思います。
 それは間違いではありませんが、野辺送りが無くなっていくことで、葬儀におけるとても大切なことが失われてきたのも事実です。
 それは、親族や地域の人、関わっている人全員で故人を送るという実感です。
 現代の葬儀は、僧侶がお経を読み、その後で家族や参列者が座って、それを聞いているというスタイルであります。
 それは結局、故人をあの世に送る、ということを、僧侶のみが行い、他はそれを見ているだけに過ぎないということです。
 そのため、家族も参列者も手持ちぶさたで、ただただ時が過ぎていくのを待つという状況が続いていきます。
 しかも、僧侶が今、何をやっているかもわからず、家族も親族もその時間、どう過ごせばいいのかすらわからないという状況に陥っています。
 一方、野辺送りにおいて、家族や親族は、自らが故人を墓地に送っていくことになるので、「自分たちで、あの世に送っている」という実感を持つことができます。僧侶任せでは無く、自分たちの手で送っているという実感です。
 それは、葬儀の主旨である「故人をあの世に送る」という当たり前のことを、葬儀のプログラムの中で理解できるということであり、同時にそれを自分が行っているという当事者意識を得られることでもあるのです。

意味の無いように見える古くさい習慣に込められた知恵

 読者の中には、葬儀で居眠りをしたことのある経験のある人もいると思います。
 あまり感心できたことじゃないので、声を大にして言う人は少ないと思いますが、現実に、葬儀会場で居眠りをしている人はけっこう存在しています。
 私はそうした人がいるのはやむを得ないことだと思います。現代のようなプログラムですと、参列者が当事者意識を持つことは簡単ではありません。しかも一時間近く、理解できない儀式が進んでいくのですから、その間、集中し続けることも簡単ではありません。
 現代の葬儀は、僧侶が出演者で、親族や参列者が観客である劇場型の儀式であります。
一方、野辺送りは、僧侶も親族も参列者もすべて当事者である参加型の儀式であると言えるでしょう。
 劇場型でも、多少なり後も意味がわかれば、儀式の中に入っていけるでしょうが、見た目に動きが無く、言葉の意味もわからないものを、ずっと見させられていたら、退屈もすると思います。
 時代の流れとはいえ、野辺送りの葬儀から、会場での葬儀に変わっていく中で、葬儀の意味がわかりにくくなっている一面があるのかもしれません。
 もちろん、火葬が一般的になってしまった時代に、昔ながらの野辺送りを復活させるのは不可能です。
 ただ、その中で、芝山町の習慣のように、野辺送りの一部を残すことは可能でしょうし、それに変わる、「故人を送る」という葬儀の意義の理解と当事者意識を得られる何かを工夫することも可能だと思います。
 芝山町でお会いした僧侶の方々には、僭越ながら、「いまでも野辺送りを行っていることはとてもすばらしいことだと思います。ぜひ、この習慣を無くさないように大切にしてください」ということをお伝えしました。意味の無いように見える古くさい習慣であっても、その根底には、人の知恵がつまっている、そう思わされた経験でした。

薄井 秀夫

薄井 秀夫(うすい ひでお)

プロフィール
昭和41年、群馬県生まれ。東北大学文学部(宗教学)卒業。
中外日報社等を経て、平成19年に株式会社寺院デザインを設立。
お寺のコンサルティング会社である寺院デザインでは、お寺の運営コンサルティング、運営相談を始め、永代供養墓の運営コンサルティング、お寺のエンディングサポート(生前契約、後見、身元引受等)、お寺のメディアのサポートなどを行っている。
葬式仏教や終活といった視点でお寺を再評価し、これからのお寺のあり方について提言していくため、現代社会と仏教に関心の高い僧侶らとともに「葬式仏教価値向上委員会」を組織して、寺院のあり方について議論を続けている。
また、お寺がおひとり様の弔いを支援する「弔い委任」を支援する日本弔い委任協会の代表も務めている。

  • 更新日時:2023年07月3日|カテゴリー:ブログ
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