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連載:葬送と仏教を考える──神と仏と先祖を信仰する

西行の祈り

なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる

 平安時代の歌人、西行法師が詠んだとされる歌です。伊勢神宮にお参りした時に詠んだと言われています。
 神宮にお参りして、そこに、どんな貴い神さまが鎮座しているのかわからないけれど、ありがたいという気持ちがあふれ、涙がこぼれてきた、という意です。
 西行法師は、その名の通り僧侶であります。仏教に帰依しているわけですが、伊勢神宮にお参りして、しかも、どんな神さまが祀られているのかも知らないのに、「かたじけなさに」涙をこぼしたのです。
 それが、神だろうが仏だろうが、関係はないということです。貴いものは貴いのだということです。日本人は、こうして神仏に親しんで来たのです。

ごちゃまぜの信仰を否定した明治政府

 ところが、明治になって欧米の文化が入って来ると、こうした神仏ごちゃまぜの宗教が「遅れている」「純粋でない」と考えられるようになり、神仏分離令が布告されました。政府は、お寺と神社が混ざり合っている宗教施設については、お寺の部分と神社の部分をはっきりと区別し、神社に勤めていた社僧については還俗することを命じたのです。
 こうしてお寺と神社が明確に区別されるようになり、今ではそれが当たり前と考えられるようになりましたが、江戸末期までは、寺も神社も僧侶も神主も渾然一体となっていたのです。
 明治維新以降、お寺と神社が一体になっている宗教施設はほとんどなくなりましたが、家庭の中には、仏壇と神棚の両方が残りました。そして人々の中にも、神と仏を分けへだてなく信仰する心が残ったのです。

科学と信仰

 そして仏教と神道という二つの宗教と上手につきあってきた日本人ですが、現代では、科学的合理主義とどう折り合いをつけるかという新しい問題が生じています。
 私たちは、戦後教育の中で、科学的な思考を頭の中にたたき込まれてきました。
 科学にとって宗教の言説は、荒唐無稽と判断せざるを得ないものが少なくありません。例えば、科学は基本的に、霊魂の存在をストレートには認めることはできません。まして、浄土の存在は認めるのがさらに困難です。現在の科学では、地球上にも、宇宙の中にも、浄土というものの存在を見いだすことはできません。
 しかし、近代以前の日本人は、本当に、浄土というものが現実に「ある」と信じていました。
 はるか西のほうに向かっていけば、そこに阿弥陀如来がいらっしゃる極楽浄土があると信じていたのです。それは象徴的な意味での西ではありません。現実の西です。だから人は、西に向かって手をあわせて極楽浄土を思ったのです。
 中世において、補陀落渡海ということが行われていたことを聞いたことがある人もいると思います。有名なのが那智勝浦の補陀落渡海で、観音菩薩がいるとされている南方の補陀落浄土を目指して、船をしたてて漂流していった僧侶がいたのです。九世紀から十八世紀の間に、約二十人の僧侶が補陀落渡海に挑戦したと言われていますが、これも、本当に補陀落浄土というものが存在していると信じているからこそ、南に向かったのです。

浄土はファンタジーなのか?

 ただ、近代以降、科学的合理主義の世界観の中では、この現実の世界に浄土というものが存在する余地はありません。浄土というものは、あたかもファンタジーの世界の話のようなものになってしまいました。霊魂や浄土というのは、近代以降の仏教では、実に扱いにくい問題なのです。
 読売新聞は平成二十年に宗教意識調査を行っています。その調査の中には、「あなたは死んだ人の魂は、どうなると思いますか?」との設問があります。
 この設問において、「消滅する」と答えた人が17.6%、「魂は存在しない」と答えた人が9.0%で、霊魂の存在を否定的に捉えている人は合計26.6%しかいません。一方、「生まれ変わる」が29.8%、「別の世界に行く」23.8%、「墓にいる」が9.9%と、霊魂肯定派が実に63.5%もいるのです。
 これらの数字が語るのは、現代のような科学万能社会で、科学的合理主義を教え込まれてきた日本人であっても、案外、霊魂の存在を信じているという事実です。
 これは人間というものが、全く別々の、それぞれが相容れない、矛盾する複数の世界観を、特に違和感なく受け入れることのできる存在だと言うことを示しています。
 普段、仕事をしたり、生活をしたりしている時、ほとんどの人は、科学的思考に基づいて行動をしています。現代社会では、科学的な考え方が人々に共通する考え方であり、科学的な思考を身につけていない人はいないと言っても過言ではありません。
 しかし、お墓参りに行くとほとんどの人が、お墓に手を合わせながら、亡くなった人の魂をイメージしています。現代科学が、魂の存在を否定しているのにです。
 こうしたパラレルな世界観が、人間には、ごく当たり前に身についているのです。

ある時は神に、ある時は仏に、ある時は先祖に手をあわせる。

 そもそも仏教にしても、神道にしても、システマティックで、首尾一貫した体系を持っているわけではありません。もともと、たくさんの神仏、たくさんの価値観を、自らに含んでいる宗教です。お互いに矛盾している神仏や価値観が、ごちゃまぜに存在している宗教なのです。
 これほどまでに科学的合理主義が席巻している現代においても我々は、非合理的な霊魂や浄土の存在を、ごく自然に受け止めています。ある時は科学的にものごとを考え、ある時は神に手を合わせ、ある時は仏に手をあわせ、そしてある時は先祖の魂に手をあわせる、それが現代の日本人なのです。

薄井 秀夫

薄井 秀夫(うすい ひでお)

プロフィール
昭和41年、群馬県生まれ。東北大学文学部(宗教学)卒業。
中外日報社等を経て、平成19年に株式会社寺院デザインを設立。
お寺のコンサルティング会社である寺院デザインでは、お寺の運営コンサルティング、運営相談を始め、永代供養墓の運営コンサルティング、お寺のエンディングサポート(生前契約、後見、身元引受等)、お寺のメディアのサポートなどを行っている。
葬式仏教や終活といった視点でお寺を再評価し、これからのお寺のあり方について提言していくため、現代社会と仏教に関心の高い僧侶らとともに「葬式仏教価値向上委員会」を組織して、寺院のあり方について議論を続けている。
また、お寺がおひとり様の弔いを支援する「弔い委任」を支援する日本弔い委任協会の代表も務めている。

  • 更新日時:2023年12月1日|カテゴリー:ブログ
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